人生日記劇場

セミリタイアを目指したいが、今すぐ無職にもなりたい20代後半男性の日記

「自分の感受性くらい」という詩

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何かの拍子に茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩を思い出した。昔読んだ教科書に載ってたのかな。(国語の教科書を隅から隅まで読むタイプの学生だった)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

    茨木のり子
詩集「自分の感受性ぐらい」(1977刊)所収

「現代詩文庫」思潮社にも収録

最後の自分の感受性くらい…が頭に残る。「そうですね、自分も頑張らなきゃな」という𠮟咤激励と捉えるのは容易だが、もはやそういう自助的な文脈ではとらえられなくなってきた。教科書を読む学生の頃ならそう受け取れたかもしれないけど。環境の影響を小さくとらえて、自分というものを大きくとらえすぎている感がある。各々が非(みたいなもの)を自分に認めすぎるのはよくないよなと思う。それはきっと強要につながるからだ。

完全な偏見だが、昔の人(自分より2世代以上上の人)は自分の意志というものを絶対視しすぎているような気がする。頑張れば夢は叶うみたいな。それは間違いではないが、絶対ではない。順位をつければ必ず1位と最下位が出る。一人選ぶとき、必ず選ばれない人がいる。それと同じように感受性というものが完全に自分のものであるという前提に立っているように読める。それは違うと思う。大いに環境の影響を受けるし、環境の影響を受けていると認識する感受性も環境の影響を受ける。守る感受性は絶対のものでなく環境に合わせて変容する相対的なものなのだ。

と、ここまで考えて、そのことを認識した上で考えることをやめるな、という示唆にとれるなと思った。つまり前提を変えようが、詩が含むメッセージは変わらないということだ。さすが教科書に載る詩である。
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